歴史シリーズ その10 伊達政宗(再)

再掲出にあたっての追記)
関連記事を再掲出したので、この記事もシリーズとは別に再掲出します。


(2008.07.24-)

 仙台の人が読んだら、怒りまくるかもしれない一文ですが、「捏造された慶長遣欧使節記」(大泉光一著 雄山閣)を読んだので載せます。
 同書を読んだことも加えて、一部は考え方が現在と違いますが、大筋はかわらないかな?

伊達政宗

 伊達政宗は不幸な人である。後30年早く生まれていたら天下人となったとも称される人だが、その人生の大半は反抗と屈服の歴史だった。
 政宗は1567年、米沢に生まれた。米沢は米沢盆地の南端であり、東の峠を越えれば福島、西へ向かえば越後坂町、北に向かえば山形盆地、南に向かえば会津盆地に通じる。当時の南東北は、最上、芦名、大崎、田村、結城、二階堂といった小豪族が割拠している状況であり、政宗の生家である伊達もその一つだった。一方で関東以南では、上杉、北条、武田、織田などの戦国大名の急成長が始まっている。
 その後、伊達氏は米沢盆地を統一する。北の山形盆地には姻戚(政宗の母の実家)にあたる最上一族が統一していた。また、西の越後は上杉がほぼ完全に掌握している。南の会津盆地には芦名一族が盆地を統一しつつあった。結果、伊達氏は勢力拡大を東に向け、三春の田村氏とは婚姻(娘が政宗正室)を結ぶなどして、福島盆地を勢力下に納める。さらに、海に向かって進撃し、相馬一族と抗争して撃破した。結果、米沢、福島、相馬近辺約60万石を支配下とする。
 ついで、南の会津盆地40万石をほぼ統一した芦名一族と抗争を繰り広げるが、ついにこれを破る。伊達家の当主、弱冠23歳の政宗は、1590年頃には、ほぼ南東北を完全に制圧して約100万石の勢力を確保した。
 しかし、この時期が伊達政宗の最盛期だった。1590年の豊臣秀吉による小田原包囲では、ようやく参陣したものの、わざわざ越後をまわっての小田原行である。小田原に篭る北条氏とは芦名一族の抗争と通じて交渉を持ち、さらにさらなる領地拡大の夢を追っていた政宗にとっては、最後の最後まで北条の逆転を望んでいたのかもしれない。その結果の米沢発越後経由小田原行だった。
 小田原では遅参を咎められ、幽閉される。寛容な秀吉に許されたものの、その差が埋めがたいものがあった。政宗は先年切り取ったばかりの会津盆地を取り上げられ、米沢他60万石となる。憤慨した彼は秀吉が京都に戻ると密かに各地の旧勢力を煽って東北地方に騒乱を起こすが、秀吉によって会津盆地60万石を与えられていた蒲生氏郷によって阻止された。結局、政宗は旧領土のほとんど全てを取り上げられ、南奥羽を中心とする60万石に移封されてしまう。落胆した政宗に、同じように旧領土を取り上げられて移封された家康が新領土経営を勧め、なぐさめたという逸話も残る。
 さすがに格の違いをみせつけられた政宗は、豊臣政権の有能な家臣に変身し、朝鮮出兵などに唯々諾々と従事する。秀吉の死後、米沢、会津の領有を認めるという家康の誘いに従って、これ幸いと上杉と抗争したものの、上杉に苦杯を舐め、あげくの果てに家康からが空証文を握らされた結果となってしまう。このころの政宗は本能寺の変直後の家康にそっくりであり、家康もだまし安かったのではないか。
 ようやく、天下というものを政宗なりに意識したのか、領地経営に精力を傾け、本拠地を山城の岩出山から仙台に移し、近世城郭を本格的に整備し始める。その一方で、天下人を真似ていこうとしたのか、幕府に対抗して遣欧使節を送ったり、大船を作って貿易を試みたり、さらには娘婿の松平忠輝を利用して幕府に参画しようとしてみたりするが、結局幕府に封じこめられる。この辺りはいささか滑稽さをましていく政宗ではないだろうか。
 こうした意味では、政宗は、小田原で秀吉に屈服してから死ぬまで、何一つ思い通りにならなかった。唯一の成果は、庶子である秀宗を伊予宇和島10万石に自腹を痛めることなく移封できたことだろう。これすらも、うるさい反抗を続ける伊達政宗への、幕府のお情に近いのではないか。
 こうしてみると、伊達政宗という人は、遅れてきた天下人というよりも、むしろ遅れてきた戦国大名というイメージが強い。もし30年早く生まれたとしても、南東北の覇者として200万石くらいにはなったかもしれないが、関東の北条などと抗争している間に、西から登場してくる中央政権の覇者に滅ぼされた可能性が高い。幸いにして、遅れて生まれた結果、また秀吉という寛容な相手だったから許された。もし信長だったら、まちがいなく壊滅させられていただろう。
 所詮は領土欲に燃える中世豪族の価値で生きた政宗は、信長、秀吉のような天下という意識は薄かった。その能力も東北の中小豪族相手の戦いには有能だったが、信長門下の優等生である蒲生氏郷、戦国大名として育成された上杉景勝といったところには手も足もでなかった。いわんや秀吉や、それを学んでいった家康にかなうはずもなかった。しかも、同年代の黒田長政や浅野幸長のような新しい時代の流れを読むすべも知らなかった。政宗本人は秀吉や家康にすら負けないという自負があったかもしれないが、到底かなわない本質的な差があった。
 それでも、最後の最後まで幕府に抵抗を続け、それでも所領を没収されることなく東北最大の藩を維持せしめた政宗の力量は認めざるをえない。仙台藩(伊達家)を警戒する徳川幕府は、東北からの街道にあたる宇都宮、白河に有力譜代大名を配置し、また、牽制する場所にあたる会津盆地に最終的には親藩筆頭格の保科松平家30万石を、山形には有力譜代大名を置いた。海添いの街道に当たる水戸には御三家の一つをおいたが、藩主は江戸常府として、事実上幕府の衛星藩としている。江戸常符の水戸藩主が副将軍などと呼ばれるのは、伊達家があっての結果だった。
 後、仙台藩は表高56万石に対して実高100万石だったとされる。誇張もあり、冷害の多い地方であることは割引かれる要素であろうが、実高と表高の格差に苦しむ諸藩が多かったことを踏まえれば雲泥の差かもしれない。


追記
 「捏造された慶長遣欧使節記」(大泉光一著 雄山閣)によれば、遣欧使節団は答礼施設としてメキシコまで行くことは徳川幕府も公認していたようです。その先は伊達政宗の胸の中・・・ということのようですが。
 でも、帰ってきた支倉常長等が幽閉されて、抹殺されたのは事実ですからね。これも、伊達政宗の胸の中・・・ということでしょう。支倉常長は賭けに敗れたわけです。

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