歴史シリーズ その53 奈良盆地

 このシリーズの残り、一応、全部載せることにしました。
 古代政権をはぐくんだ奈良盆地は不思議なところです。
 正確には大和盆地なのかな?
 この記述は古代だけですが、そこから延々と続き、江戸時代初期まで、特殊な存在だったのかもしれません。特に建造技術集団においては・・・。


奈良盆地について

 人の生活は自然条件に大きく左右される。このことは、現在も古代もさほど差はない。なかでも、地理的条件はそのまま政治基盤となる。現代でも、わずかな例外を除けば、地理的条件がそのまま行政区分である。
 日本の統一政権の母体となる大和政権は奈良盆地に成立した。もっとも、その成立時点では、奈良盆地を勢力としていた程度であり、統一政権ではない。一地方政権である。
 地図で見れば分かるように、奈良盆地は四方を山に囲まれた小世界を形成している。この盆地から流れ出る河川はわずかに大和川のみ。従って、奈良盆地の周囲の山々から流れ出た水は小河川となって奈良盆地に集まり、やがて大和川に集結していく。
 このような奈良盆地では、小河川の扇状地などに集落が発生し、やがてそれらが集団としての部族に成長した。平群、三輪(大倭)、巨勢、葛城などである。彼らは、大和川支流の一河川を中心に勢力を形成していく。3世紀頃には、このような勢力が奈良盆地の各地に存在していったのではないか。
 やがて、それぞれの部族首長の連合によって盆地全体の連合政権へと発達していく。奈良盆地をつなぐ大和川の水系が彼らを連合させた。そして、連合政権の首長を各部族で交替するような制度を作っていったのではないか。これが、大和朝であり、崇神朝であろう。ほぼ4世紀頃ではないだろうか。
 この当時、同等の連合政権は各地に生まれていた。北九州では筑紫平野を中心とした地域政権があり、おそらく魏に使いした邪馬台国の女王などがその地域政権の首長を勤めていたのではないか。もともと、1世紀の頃から、この地には奴の国などの集落国家が分立して、南朝鮮と密接に交流していた。その集落国家が連合していった筑紫平野の地域政権が魏に使いしても不思議ではない。各地に良港を持つ筑紫平野は四方を山に囲まれた奈良盆地と違い、開放的な地形である。この地域政権は南朝鮮など、他の地域と盛んに交流していたと考えるのは自然な発想であろう。
 この他にも、出雲平野、岡山平野、熊本平野などでも、ある程度の地方政権が存在した可能性が高い。それらはいずれも地理的条件による地域をまとめたような勢力であり、それぞれが独立していた。相互に交流はあったであろうし、場合によっては戦争もあったであろう。あるいは、婚姻、移民などによる血縁関係もあったであろう。しかし、それぞれは基本的に独立しており、一つの勢力は他を圧倒するようなものはない。従って、いずれをとっても、統一政権ではない。
 さて、奈良盆地を流れ出た大和川は河内平野に流れ、さらに大阪湾に注ぐ。奈良盆地に崇神朝が成立してしばらくたった頃、4世紀中頃からか。この河内平野にも新しい勢力が成長してくる。この勢力は大和川の水系と通じて崇神朝の勢力と交流し、その政権に参加し、ついにはその首長位を継承した。これが河内朝、応神朝である。崇神朝と応神朝を結び付けたもの、それは奈良盆地から河内平野に流れ出る大和川だった。
 四方を山で囲まれた奈良盆地と違い、河内平野は瀬戸内海に面した交通の要衝である。後の時代になってもその重要性は変わることがない。聖徳太子の時代、隨の返答使はここから上陸した。天智天皇前後、難波にはしばしば都がおかれた。もっと時代が下った戦国時代から江戸時代、堺という商業都市が繁栄している。 このような河内平野に拠点をおく応神朝は、それまでの地域政権から脱皮していく。


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