関ヶ原の戦いでの宇喜多秀家・断章。

 以下は、以前に書いたクロニクル風の歴史小説から、宇喜多秀家に関する部分を抜き出したものです・・・。

 慶長五(一六○○)年六月まで 
 まがりなりにも十年に及ぶ中央政権は脆弱さを内包しつつも、すぐには瓦解しない。老人性痴呆でふらつきながらも「中央政権の維持」を意識していた豊臣秀吉もまた、瓦解を阻止すべき体制を整えようともしていた。そして整備されたのが、後世にいうところの「五大老五奉行」なる制度。つまり、最高官僚を十人指名して中央政権を合議運営させると共に、相互に牽制させて組織の瓦解を防ごうとしていた。
十人の最高官僚とは、すなわち、徳川家康(前武蔵江戸城主、江戸内大臣)、前田利家(前加賀金澤城主、加賀大納言)、宇喜多秀家(備前岡山城主、備前中納言)、毛利輝元(安芸広島城主、安芸中納言)、上杉景勝(陸奥会津若松城主、会津中納言)、浅野長吉(長政、前甲斐府中城主、弾正少弼)、石田三成(近江佐和山城主、治部少輔)、長束正家(近江水口城主、大蔵少輔)、増田長盛(大和郡山城主、右衞門尉)、前田玄以(前丹波八上城主、徳善院)。この十人が最高官僚として中央政権を合議運営していく。この合議による政権運営は一定の成果を挙げ、豊臣秀吉が生存中は撤退しようにも出来なかった朝鮮出兵終結に成功、四ヶ月ほどをかけてそれを達成した。

 慶長五(一六○○)年七月六日
 昼頃、宇喜多秀家は明石全登の訪問を受けていた。場所は摂津大坂の宇喜多屋敷。前日、京都にある豊国社、すなわち豊臣秀吉の墓所に参拝していた備前岡山城主は、午前中に摂津大阪まで戻ってきたのである。
 備前、美作などで六十万石ほどを領有する有力大名がもっとも信頼する筆頭家臣は、包み隠さず大谷吉継の書状について報告している。
「内府(徳川家康)のことは面白く思っていなかったのだがな。」
 貴公子然として宇喜多秀家は応じたものの、こうも言う。
「かといって、出兵している内府を背中から追い落とすのもどうかだが。」
「それはその通りでしょう。今は別に当家と内府は敵対関係にある訳ではありませんから。ただ。」
「ただ、何だ。」
「内府と当家は、いずれ対決しましょう、な。」
「何故だ。」
「内府は会津中納言(上杉景勝)を追い落とそうとしています。治部少輔(石田三成)も弾正少弼(浅野長政)も、加賀中納言(前田利長)も追い落としました。」
「次は宇喜多だというのか。」
「御意。」
 そう言って明石全登は、後は自分で考えよと言わんばかりに沈黙した。宇喜多秀家もしばらくは黙って考え込んでいる。

 確かに会津中納言(上杉景勝)はこれで終わりだった。宇喜多秀家のおよそ倍、百二十万石ほどを領有する上杉景勝とはいえ、どんなにかき集めたとしても総戦力は五、六万が関の山。倍以上の戦力で四方八方から侵攻してくる敵には抵抗しようもないだろう。善戦して体よく降伏したとしても、一大名に転落するのは必至、少なくとも中央政権の最高官僚の座を追われることは確実だった。
 先年には宇喜多秀家の義兄、つまり前田利長が徳川家康から難癖を付けられている。備前岡山城主の正室の兄は大老でこそないものの、豊臣秀頼の取次役を一任され、さらには父親(前田利家)の死後には大老職の代行をしてもいた中央政権の実力者。そんな加賀金澤城主を武蔵江戸の隠居は自分の暗殺計画の黒幕かもしれないという噂だけで詰問し、追い落としを計った。
 そんな危機に対して備前岡山城主の義兄は、実母の武蔵江戸送りと、後継者の可能性のある実弟と武蔵江戸の隠居の孫娘の婚姻を交換条件にして危機をうまく切り抜けたものの、同じように暗殺計画に連座したとされた豊臣秀吉の義弟、つまり浅野長吉は失脚させられていた。

 次は俺かもしれない。
 正直なところ、宇喜多秀家は日頃から思っている。

「かと言ってどうする。」
 言外に勝てるのかという意味を含めて備前岡山城主は言葉を返した。
「勝てる保証はないでしょう。しかし、五分五分以上にはなります。これは保証出来ます。」
「何故だ。」
「今の内府は所詮、お拾い(豊臣秀頼)の代理だからです。」
 そう言い、明石全登は力説した。
 内府に諸大名が従っているのはお拾いの代理、つまりは虎の威があるから。内府以外の大老と奉行衆が一致してそれを否定すれば、内府にはその権限がなくなり、虎の威はなくなる。そして、諸大名の多くが離脱するだろう。
 それが可能な立場にあるのは宇喜多秀家だという意味を匂わせての力説である。そして、最後にこう言った。
「かと言って、内府に敵対する理由は今ありません。むしろ、この企てを内府に報告して点数を稼ぐのも一案です。」
「馬鹿を言うな。」
 途端に宇喜多秀家は機嫌が悪くなった。貴公子然とした備前岡山城主は、人に故なく膝を屈することが何よりも嫌いである。そんな気性を見ぬいていた明石全登が、わざとこんな発言をしたのかも知れない。
「とにかく兵を大坂に集めよ。その上で、大蔵少輔(長束正家)や右衛門尉(増田長盛)の意向も聞かねばなるまい。」
 この時、宇喜多秀家の脳裏には毛利輝元のことなど何一つなかった。


 慶長五(一六○○)年七月十日
 昼前、摂津大阪城二之丸にある書院の一室で顔を付き合わせたのは三人。長束正家、安国寺恵慧、明石全登である。中央政権の最高官僚が一人、そしてその代理人が二人。それぞれがそれぞれの思惑をかかえての会談だった。
 口火を切ったのは安国寺恵慧である。
「先日、大蔵少輔(長束正家)の申し入れの件、安芸中納言(毛利輝元)様にはご熟慮され、まもなく大阪屋敷に入られる予定だ。」
 すでに事情を知っている一人は表情を変えなかったものの、もう一人はけげんな顔をして言う。
「冶部少輔(石田三成)と行部少輔(大谷吉継)よりのことではないのか。」
「冶部少輔よりの書状もご熟慮された。しかし、冶部少輔はすでに隠居の身、大蔵少輔よりのお申し出こそがよろしかろう。」
 毛利輝元代理人の一言は、宇喜多秀家代理人を慌てさせた。豊臣秀吉の養子にして大老の一角を占める自分達こそがこの企ての首班になるのにふさわしいと、勝手に思い込んでいた宇喜多秀家とその代理人は、事前工作など思いもよらぬまま、摂津大阪に兵が集まるのを待っていたのである。
 どうやら、先手を打たれたようだ。
 そう気づいた明石全登は反撃を試みた。知らぬものは賛同しかねるという意味を言外に匂わせて言う。
「大蔵少輔よりの申し出なるものは存じておらぬ。」
「今回の一事、中々の大事にござる。それ故に安芸中納言にご相談申し上げた。」 
 近江水口城主が補足した。
「我らにもご相談あってしかるべきだが。」
 そう言って不快感を示す明石全登に対し、なだめるように長束正家は言った。
「いかにも左様ではあるが、物事には順序がござる。安芸中納言は中国の太守であり、金吾中納言(小早川秀秋)も御一門。」
 なるほど、な、確かに金吾中納言のことは忘れておった。
そう明石全登は思った。

 毛利輝元と小早川秀秋の所領を合わせれば都合百四十万石。一族にあたる吉川広家も入れれば百六十万石にもなる。さらに小早川秀秋と血縁や家臣関係にある大名が治める若狭、播磨、越前の諸大名を含めれば、その影響力は二百万石を越えた。
 それに引き換え、宇喜多秀家の実力は備前などでようやく六十万石ほど。対する徳川家康の既得権が約二百五十万石あるということを思うと、心細いのも事実だった。

 負けたな。
 そう思った明石全登は一歩引いた。
「して、いかがなされるのかな。」
「安芸中納言様にはご一同の賛同を受けて、内府(徳川家康)の非道を問責、職を解くご所存でござる。」
 続いて、ご一同の賛同を受ければ、安芸中納言が大老筆頭となり、さらに金吾中納言もご参加される、等々の構想を安国寺恵慧と長束正家は交互に説明した。もちろん、昨夜、二人はこの内容を詳細に協議済み。基本的には長束正家が発案し、安国寺恵慧が修正した構想である。
 賛同を受けてという、いささか回りくどい言い方だったものの、その意図は明白だった。
「備前中納言(宇喜多秀家)にも、従来に増したご活躍をお願いいたす所存。」
 近江水口城主は最後にそう言った。
 行部少輔が聞いたら怒るだろうな。
 そう思いつつも明石全登は反論しない。ここまで毛利輝元と長束正家が動き始めた以上、事態が逆戻りするとも思えなかったのである。仮に今回の誘いに乗らないとしても、いずれ、宇喜多はつぶされるという思いが宇喜多秀家の代理人にこう言わせていた。
「備前中納言様には、内府の行いがよろしいとは思っておられぬ。安芸中納言が問責を決心されたのであれば、同心されるであろう。」
 そう言い、さらに続けている。
「されど、今回の企て、中々難しいものがあるのも事実。我らのみならず、より多くの賛同が得られねば、事は失敗いたそう。むろん、冶部少輔や行部少輔も含めて。」
 要は「より多くの大名」が納得のいく体制が必要なのだと明石全登は言った。本音は石田三成や大谷吉継を引き込むことで、宇喜多秀家の立場を強化する思惑だったが、それは道理でもある。
「なるほど。して思案はござるのかな。」
 安国寺恵慧の言葉に対し、明石全登は言う。
「安芸中納言様が中心となって内府を問責されるのはかまわぬ。されど、備前中納言様はもちろん、大蔵少輔、右衛門尉(増田長盛)等も同心して問責せねば効果は薄い。さすれば諸大名も得心いたし、一層の賛同を得られよう。」
「なるほど。」
 長束正家は同意した。
 そして、長束正家は同僚の最高官僚二人、すなわち増田長盛と前田玄以を同心させることを、明石全登は宇喜多秀家の賛同を得ることを約し、三人は散会した。

 宇喜多秀家のいる大坂屋敷に戻った明石全登は、主君に状況を説明している。
「大分、話がちがうな。」
 軽く筆頭家臣を責めたものの、備前岡山城主はさほど怒っていない。
「大老筆頭にはなれませぬが、次席は固うござる。まずは事をなすこと。安芸中納言のことはまた次の沙汰でございましょう。」
 明石全登は、そう主君を説得せざるをえなかった。
「次席といえば、今でもそうかもしれぬが、な。」
 確かに、前田利家が亡き後、徳川家康に次ぐ大老はといえば、新参の上杉景勝でもなく、死んでしまった叔父によって押し上げられた毛利輝元でもなく、豊臣秀吉の養子でもある宇喜多秀家だということは、衆目が一致している。しかし、安芸武田氏の末裔が予想した通り、備前岡山城主は案外と無欲だった。
「まあ、よかろう。安芸中納言の所領は当方の倍。確かに金吾めのこともある。」
 そう言った宇喜多秀家だったが、内心は悪くないな、とも思っている。
 中央政権の最高官僚次席ということは「次の筆頭にもっとも近い」ということ。安芸広島城主と備前岡山城主の年齢差は約二十。時の流れがやがて自分を次の首班に押し上げてくれるだろうというのは自然の摂理でもある。さらに、毛利輝元にしてみれば従兄弟の小早川秀秋だったが、宇喜多秀家にしてみれば同じ豊臣秀吉の養子だった。つまりは義兄弟ということでもある。
 安芸中納言と綱引きをすれば金吾中納言は自分を支持してくれるはず。折りを見て治部少輔と行部少輔を政権に参加させれば、いずれは自分が大老筆頭になるだろう。
 そんな思いが備前岡山城主の心を占めていた。


 慶長五(一六○○)年七月十五日
 大軍が難波の沖に到着していた。六千ほどの部隊を率いているのは小早川秀秋。豊臣秀吉の養子にして正室の甥、官位は中納言であり、通称は金吾中納言と呼ばれている。毛利一族とも縁続きになる小早川家を継いだ、筑前名島で約四十万石の所領を持つ大大名だった。三日前、石田三成が安国寺恵瓊に「落とせない」と話した人物でもある。
 小早川秀秋は席を暖める暇もないまま、摂津大坂城内へ招き入れられた。
 二之丸書院の一室で待っていたのは毛利輝元と宇喜多秀家である。豊臣秀吉の血縁者にあたるこの人物を口説くには口説く方も相応の立場が必要であり、それが出来るのは官位、所領共、口説かれる側と同等以上である大老二人しかいない。その他の首謀者達は別室で成り行きを見守っている。
「金吾中納言(小早川秀秋)殿、遠路御苦労でござった。」
 そう切り出したのは毛利輝元だった。安芸国人領主の連合政権当主という発想から抜け切れていない安芸広島城主は、筑前名島城主も自分達の一族という認識がある。義理とはいえ従兄弟にたいしての口調は必定、親しみを込めたものとなった。
 しかし、言われた方は儀礼的に返答している。
「ご使者の趣により、急ぎ参上致しました。何事でござりましょう。」
 あまりに儀礼的な口調に少しばかりムッとしたものの、毛利輝元は冷静に言った。
「先程、内府のこと追放が決議された。(豊臣)秀頼公の御為でござる。金吾中納言殿にもご賛同いただけような。」
 相手の意志を確かめるのではなく、自分の結論を押しつけているのも同然の口調だったが、言われた方は何を言っているのか瞬時には理解出来なかった。当然、何を言っていいのか分からないまま、沈黙するのみである。

 沈黙を続ける筑前名島城主に対し、もう一人の大老が言った。
「(豊臣)秀頼公のこともさることながら、内府の事、放っておけば我等は加賀中納言(前田利長)、会津中納言(上杉景勝)の二の舞。その辺りもご配慮されよ。」
 かつて明石全登から言われたのと同じ内容を宇喜多秀家は義弟に言ったことになる。
 会津中納言はヘマをしたが、加賀中納言はうまくやったではないか。
 そう思った筑前名島城主だったが、まだ何も言わない。
 今度は安芸広島城主が言う。
「ご賛同いただければ、父上同様、大老にご就任いただけるのだが。」
 もちろん、毛利輝元の言う父上というのは「豊臣秀吉」ではなく「小早川隆景」を指す。こんなところからも、いまだに小早川家を毛利一族扱いしている毛利輝元の意識が感じられるのだが、その言葉を聞いた小早川秀秋は初めて表情を動かした。
 大老か、悪くない、義父に並ぶ、しな。
 そう二十歳の筑前名島城主は思ったのである。

 しばしの沈黙の後、小早川秀秋はついにこう言った。
「(豊臣)秀頼公の御為に尽力つかまつりましょう。」
 それを聞いた二人の大老は顔を見合わせ、安堵の表情を浮かべた。無事に小早川秀秋を一味に引き込んだという思いからだったが、その思うものは違う。一人は「一族を味方にした」であり、もう一人は「義弟を味方にした」だった。


 慶長五(一六○○)年七月十八日
 摂津大坂城では実務者達が軍議を重ねていた。
「城下は概ね収拾がつきもうした。」
 そう言いのけたのは昨日来人質収拾の指揮をとっていた長束正家である。お世辞にもうまく行ったとはいえない人質収拾作戦だったが、ともかくもやることがなくなったのも事実だった。
「いよいよ次でござる。」
 そう言ったのは安国寺惠瓊。僧侶は続けて言った。
「伏見城を掌中にいたしましょう。近在にある内府(徳川家康)の軍勢はあそこのみ。」
 そうすれば、近畿は我等のものだとも言った。石田三成と大谷吉継に十二分に教唆されていた安芸武田氏の末裔は、意識しない内にその代理人に近い発言を繰り返すようになっている。
「よろしかろう。」
 応じたのは明石全登である。宇喜多秀家の腹心は続けて言った。
「我等に是非先手をお願いしたい。」
 功績を挙げて宇喜多秀家の立場を補強したい、先手先手を打たれていささか受動的になっている事態を変えたいとそう思いつつ、明石全登は主張した。
「備前中納言(宇喜多秀家)様の軍勢は名うての猛者、是非にお願いしたい。」
 そう言い、安国寺惠瓊は賛同したものの、すかさず付け加えた。
「金吾中納言(小早川秀秋)殿にもご同行していただこうか。」
 一族を付けることで牽制を試みたのである。付けられる方も、その意図は理解したものの、特に不満は示さないまま会議は進む。
 こうして、宇喜多秀家を総大将とする山城伏見城攻略部隊は明日摂津大坂城を出ることが決定、小早川秀秋を筆頭とした、それに参加することが決められた諸大名達にはその知らせがなされた。


 慶長五(一六○○)年七月十九日 
 昼前、山城伏見城は大騒ぎになった。摂津大坂城を追われた徳川家臣達が次々と城内に逃げ込み始めた為である。しかも、それを追いかけるように、宇喜多秀家等の大軍が続々と城郭周辺に集結、包囲し始めていた。

 一方、包囲を始めた方も戦意が上がらないこと著しい。
 なにしろ、ほとんどの大名は何がどうなっているのか分からないまま、山城伏見城まで来てしまっていた。戦意が上がらないのも無理はない。加えて、目前にある城は土木建設の天才だった豊臣秀吉が作った典型的な近世城郭。政庁としての華麗さに加えて城郭自体が大要塞のようなもの。下手に手を出して大損害を受けるのもかなわない。命令に従って包囲し始めたのはいいものの、皆、遠巻きするのみ。積極的に攻撃をかけようなどという面々はいなかった。
「どうしたものかな。」
 事態の主導権を毛利輝元に奪われないよう、山城伏見城攻略部隊の指揮を買って出た宇喜多秀家も頭を抱えている。部隊の指揮を直接預かっている明石全登にしても、目前の名城を攻め落とす具体的な方法がある訳でもない。


 慶長五(一六○○)年八月一日
 山城伏見城は断末魔にあえいでいる。
 前日までの包囲軍は城を遠巻きにして鉄砲を撃ってくるのが関の山。土木建設の天才だった豊臣秀吉が作った堅固な要塞でもある城郭にも助けられ「楽々と」とまではいかないまでも、わずか二千の部隊でも伏見城守備隊はなんとか防戦を続けていた。
 しかし、今日になってそんな状況は一転、各城門に敵が殺到している。
 いきなりの攻勢には訳があった。昨夕、摂津大坂城から長束正家、鍋島勝茂等の大部隊が到着、包囲軍の総大将である宇喜多秀家に全面攻撃を要請したのである。いかに山城伏見城が名城とはいえ、大部隊が十日も攻撃しているのは文字通り「面子がたたない」という毛利輝元等の判断を伝えての要請だった。
 摂津大坂城西之丸に居座る「新」大老筆頭の言葉を山城伏見城攻略部隊の総大将に直接伝えたのは近江水口城主である。
「しかし、力攻めでは被害が、な。言うことを聞かぬ者も少なくない。」
 特に金吾(小早川秀秋)めがな、とは言わなかったものの、そう渋った宇喜多秀家だったが、長束正家の方は強硬だった。
「いささか勝算もございます。」
「ほう、どんな。」
 おもわず問い返した明石全登に対し、長束正家は答えた。
「すでに甲賀の者を忍ばせております。攻勢に転じれば、城門を開けましょう。」

 面目をつぶされかねない進言ではあったものの、攻めれば勝つということを知って、躊躇する司令官はいない。
「わかった。総攻撃を命じよう。」
 宇喜多秀家は即座にそう言い、この日の総攻撃が始まったのである。
 昼過ぎには内応した甲賀出身者によって城門が開かれ、城内に包囲軍が充満した。
 午後に入ると、山城伏見城内から徳川家臣団の姿は全て消えていた。
「やっと、落ちましたな。」
 十日は長すぎますぞ、という多少の非難を含めて長束正家は宇喜多秀家に言う。そんな意図を感じとったのかどうかは分からなかったものの、大老次席はこう答えて問題をすり替えた。
「次はどうする。このまま部隊を伊賀から伊勢へ向け、敵方の城を収めていくのが一案だが。」
 当初方針に添った計画でもあり、長束正家にも異存はない。
「それがよろしいかと。」
「同意して貰えるのなら、後片付けが済み次第、伊賀へと向かおう。かの地は確か筒井(定次)侍従の領地だったな。敵方かもしれぬから、場合によっては一戦ということにもなる。」
 そう言った宇喜多秀家だったが、同時に顔を曇らせもした。山城伏見城包囲部隊に蔓延する戦意の低さを思いだしたからである。

「金吾中納言(小早川秀秋)、薩摩少将(島津義弘)には近江から東山道を美濃へと回っていただこうか。近江水口を任せられておる大蔵少輔(長束正家)殿は(安国寺)恵慧和尚と東海道から伊勢に向かわれよ。安芸宰相(毛利秀元)には自分と供に伊賀上野に向かい、そこから伊勢へと進んでいただきたい。日ならずして、大垣か岐阜当りで合流できよう。先の合意通り、摂津守(小西行長)等は東山道から美濃へ出てもらいたいが、瀬田が空になるのは困るな。筑後侍従(立花宗茂)等には大坂から瀬田まで進んでいただきたい。」
 宇喜多秀家は、総じて戦意が高いとはいえない大名の中から、特に扱いにくい二人を美濃方面に回す部隊に指名、同時に毛利輝元の後継者扱いになっている人物を自分に同行させようとした。前者は「厄介払い」であり、後者は「人質」である。
 しかも、備前岡山城主は安芸広島城主の合意をえないまま、当面の部隊展開をも指示したことになった。見方によっては「独断専行」だったが、実践部隊の指揮をとるのは自分であり、毛利輝元ではないという宇喜多秀家の意思表示なのかもしれない。
 そんな事情を察しつつも、中々いい人選、そして展開だなと思った長束正家は、そのまま同意している。
 こうして、山城伏見城包囲に参加した部隊は二分される方向となった。
 しかし、備前岡山城主の意図は、山城伏見城包囲軍を始めとする毛利輝元派に反感をかった。自分が宇喜多秀家の指揮に従うことに疑問を抱く小早川秀秋から、大阪まで一報が報じられている。


 慶長五(一六○○)年八月十五日
 宇喜多秀家が摂津大坂城を再出陣している。毛利輝元の要請に従い、摂津大阪城に戻ってからすでに十日以上が過ぎていた。

 その間、毛利輝元との直談判で「軍事指揮権の委譲」を要求し続けた備前岡山城主だったが、安芸広島城主は決して首を縦にふらなかった。「少なくとも前線の」という条件をつけての交渉も不成立、結局、宇喜多秀家は何もえることなく、山城伏見城に残留している部隊に合流するはめになっている。

 そんなこんなで、山城伏見城陥落から十五日をすでに費やしている。到底、迅速とはいえない。そんな不満というか、不安をかかえつつの出陣ではある。
 しかも、伊賀上野は無血開城していたし、伊勢には毛利秀元等の大部隊が集結している。今となっては、備前岡山城主率いる部隊の行き先も定かではなかった。

「伊勢に向かいましょう、ぞ。」
 休息の間、同行していた明石全登はそう進めたが、宇喜多秀家は不満気に言い返す。
「今から伊勢に入り、安芸宰相(毛利秀元)の後塵を拝するというのか。このまま、伏見に留まってはどうだ。」
 これでは俺は上の指示に従う一戦闘指揮官にすぎない。安芸中納言(毛利輝元)との差は開くばかりだ。むしろ、各地への移動が可能な山城伏見で様子を見、適切な場所に移動できるようにしたほうがいいのではないか。
 そう備前岡山城主は感じている。しかし、筆頭家臣は説得した。
「安芸宰相は関に入られたとか。目的は阿濃津でしょう。我等は近江から伊勢に入り、桑名、長島と向かえばよろしいのでは。」
 伊勢桑名の氏家秀行は動向を決していない。伊勢長島の福島正頼は福島正則の実弟であり、恐らく徳川家康派だろうと想定されている。そんな連中を標的にしていけばいいというのが明石全登の目論見である。
「伊勢の南は安芸宰相に任せ、北を我等が押さえるということか。」
「さようです。しかも美濃も近い。治部少輔(石田三成)と連絡を取れば尾張へも進めますぞ。」
「わかった。」
 備前岡山城主はようやく納得した。


 慶長五(一六○○)年八月十七日
 山城伏見城に残っていた部隊と前夜遅くに合流した宇喜多秀家は、寝る間を惜しむように近江に向かっていた。全速力で近江を抜け、東海道を伊勢桑名に向かうつもりである。


 慶長五(一六○○)年八月二十
 宇喜多秀家が率いている部隊は東海道から伊勢街道に入り、木曽川沿いを北上、尾張、美濃との国境へと移動していく。こちらの目的地は伊勢長島。そこには徳川家康派の福島正頼が立てこもっているはずだった。
 伊勢長島を大軍で包囲し、開城させる。
 それが宇喜多秀家と明石全登にとって、当面の目的である。要害とはいえ、敵は寡兵、一万八千の大軍を持って包囲すれば可能という読みもあった。


 慶長五(一六○○)年八月二十三日
 宇喜多秀家の部隊は伊勢長島の直近まで進出している。
 しかし、戦果ははかばかしくない。実兄の意図に忠実に従おうとする福島正頼は断固として降伏も講和も拒否していた。そんな伊勢長島城を包囲しようにも、周辺は木曽川、揖斐川、長良川という三河川の流れが細かく流れる低湿地。陸戦部隊を展開するような地面はほとんどない。そんな低湿地の移動には必須となる小船舶を用意しようにも、そのほとんどは福島正頼が城内に収容させたか、破棄させており、手に入らない。
 つまり、攻撃しようにも城に近づけもしないのが実情だった。
 結局、二万近い大部隊は城から遠く離れた伊勢街道沿いに野営するしかない。

 備前岡山城主は妙な感慨を持って、はかばかしくない戦果を肯定せざるをえなかった。


 慶長五(一六○○)年八月三十日
 宇喜多秀家はあいかわらず、伊勢長島城を遠望できる伊勢街道沿いに部隊を布陣している。何の戦果も上げていない大老次席だったが、その元に伊勢阿濃津からの増援部隊が到着していた。率いているのは肥前佐賀で三十六万石ほどを領有している鍋島直茂の長男、鍋島勝茂である。

「中納言(宇喜多秀家)様、大蔵少輔(長束正家)からの書状を持参しております。」
 そう言い、まだ若い鍋島勝茂は書状を差し出す。毛利輝元派の副首班は黙ってそれを開き一読した。書状の内容は、伊勢長島の攻撃を鍋島勝茂と交代し、美濃大垣に出向くようにとの依頼である。
 そうするか。攻めようもない城を遠巻きしていても、な。
 備前岡山城主の胸中は苦い思いで占められている。すでに数日駐留しているものの、何の戦果を上げていない現実が宇喜多秀家を暗くさせていた。しかし、美濃岐阜城が陥落した今、早急に美濃に増援部隊が必要なのは明白である。それが可能なのは確かに自分だけかもしれなかった。
「了解した。信濃守(鍋島勝茂)には当地にあって長島を攻略されたい。」
 そう言い、宇喜多秀家は出陣の準備に取り掛かっている。


 慶長五(一六○○)年九月三日
 美濃岐阜城陥落以来、徳川家康派と毛利輝元派対決の最前線となった美濃大垣では一騒動が起こっていた。すなわち、宇喜多秀家率いる一万八千もの大軍が到着したのである。
「備前中納言(宇喜多秀家)にはよくぞ見えられた。」
 数日来の戦況、すなわち敗戦続きに苦い顔をしていた小西行長は本人に次ぐ毛利輝元派の巨頭を手にとらんばかりに迎え入れた。しかし、もう一人の首謀者、すなわち石田三成は必ずしも明るい顔はしていない。
「遠路、ご苦労にござります。」
 そうは言ったものの、近江佐和山の隠居は複雑な思いだった。
「戦況は芳しくないようだな。」
 そう言った宇喜多秀家の表情もあまりぱっとしない。山城伏見城攻略にてこずり、伊勢長島城包囲でも戦果らしい戦果を挙げていない大老次席は、正直なところ焦っていた。戦況が固まったとはいえない伊勢方面を放棄して美濃大垣まで進駐してきたのは、鍋島勝茂の進撃との交代もさることながら、そんな焦りの現われだったのかもしれない。

 毛利輝元派は美濃大垣城に約四万、美濃山中に約一万がいる。美濃赤坂にいる徳川家康派は四万弱。一応は毛利輝元派が優位ではあったが、圧倒的という訳ではない。しかし、追って伊勢方面から毛利秀元等の部隊三万以上が北上してくるはずだった。そうなれば、味方は八万に膨れ上がり、敵を圧倒する。もちろん、新たな敵が現れないという条件付きだったが、そんな目論見は間違いではない。
「内府(徳川家康)が動いたという知らせはないな。」
 そう確認した上で備前岡山城主は言った。
「安芸宰相(毛利秀元)がまもなく美濃に入るはずだ。それを待って攻勢に出よう。」
 戦功を上げられないまま評価を下げてしまっている自分自身に焦りつつも、宇喜多秀家は戦略的に優位な地位を稼ごうとしていた。


 慶長五(一六○○)年九月七日
 伊勢阿濃津から移動してきた毛利秀元、長束正家、安国寺恵慧、長宗我部盛親等が伊勢街道を北上、美濃に入ったという知らせが美濃岐阜に届いている。
 そろそろ来るだろう。合流次第、総攻撃で岐阜を奪還してやる。
 そう思って毛利秀元等を待ちかねていた宇喜多秀家等だったが、肝心の増援部隊は美濃大垣城を無視して先に先にと進んでいった。
「どういうつもりだ。」
 備前岡山城主は納まらない。もちろん、石田三成も小西行長も、である。慌てて詰問状を送ったが、返事はつれなかった。
 美濃赤坂を挟撃する位置に部隊を置く。
 それが出雲富田城主の返事である。もちろん、この行動自体は、すでに毛利秀元の了承も得ていた。確かに「一理」なくはない位置でもある。しかし、無視された方、特に前線部隊の総大将を自負する宇喜多秀家が納得できようはずもない。
「中納言(宇喜多秀家)様の指揮に従いたくないのでしょう。」
冷静に近江佐和山の隠居は事実を言った。半ばは自分の本音でもある。
「そんなことを言っている場合か。」
 宇喜多秀家はそう言ったが、完全な指揮権が自分にある訳でもない。相手は大老筆頭直属の部隊でもある。問責すれば角も立ち、ますます言うことを聞かなくなると予想できた。
「安芸宰相は無理でも、大蔵少輔(長束正家)、土佐侍従(長曾宗部盛親)くらいは交渉してみましょうか。」
 そう言って、近江佐和山の隠居は席を立とうとする。自らが使者となって備前岡山城主の指揮下に従うように要請するつもりだったが、異議を唱えるわけでもなく、つぶやいた人物がいる。
「無駄ですな。」
 島津義弘だった。
何故か、と問いたげな備前岡山城主に対し、名門御家人の末裔は言った。
「大垣に来る気があるのなら、単独でも合流しましょうからな。」
 確かにそうだった。


 慶長五(一六○○)年九月十四日
 予測はしていたものの、しかし、反応はそれぞれではある。
「やはり来たか。」
 そう言ったのは宇喜多秀家である。いよいよ「決戦」という思い入れが強い。
「やはり来ましたな。」
 若干意味合いが違う言い回しをしたのは石田三成だった。前者には島津義弘が、後者には小西行長が同意を示す首肯を示している。そして、名門御家人の末裔はさして深い意味もなく、戦意に駆られて言った。
「内府は油断しておりましょう。今宵夜討ちをかけてはいかがか。」
「馬鹿を言え。」
 遠慮会釈なく言ったのは石田三成である。近江佐和山の隠居は断定的に続けた。
「あのようなふざけた真似をする以上、内府は相応に赤坂着陣を意識しておる。そんなところにのこのこ夜襲してみろ、飛んで火に入る夏の虫だぞ。」
 正論ではあるが、言われた方はいい気分にはならない。島津義弘はむっとした表情を見せ、黙りこくった。
「まあ、せっかく内府が来たのだ。目に物見せてやろうではないか。」
 なだめるように宇喜多秀家は言い、明石全登を呼ぶ。そして、石田三成も腹心である島勝猛を呼び寄せた。

「内府(徳川家康)が近江に向かうというが本当ですかな。」
 問い掛ける石田三成に対し、宇喜多秀家も小西行長も断言した。
「流言だな。」
「嘘でしょう、な。」
 さすがに信じるものはいない。そして、行軍に疲れた兵を休ませる為の時間稼ぎだろうというのも一致した認識だった。
 では、どうするかを巡ってしばらく軍議は続く。
 
「内府の術策にのるのも勺だ。安芸宰相(毛利秀元)も金吾中納言(小早川秀秋)も呼んだところで来るかどうか分からぬ。行部少輔等もあの近くから動こうとしないのだからな。いっそ、関ケ原を戦場にしてしまえば、連中も戦わざるをえまいて。うまく引きつければ、あの盆地が内府の墓となる。」
 結局、宇喜多秀家がそう決した。企ての副首班格である備前岡山城主の言葉には誰もそむけないし、そう反論すべき駄策でもない。
 福原長暁、秋月長種等、約五千の残留部隊を定め、宇喜多秀家、石田三成、小西行長、島津義弘等の主力部隊約二万五千が美濃大垣城を発ったのは夜のことである。もちろん、隠密行動ではあったものの、敵に知られないものとは考えていない。


 慶長五(一六○○)年九月十五日
 そろそろ空が白んできた、今でいう午前四時頃、伊勢街道を北進してきた毛利輝元派は着陣順に石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家が盆地を見下ろす西側の丘陵に陣を構えた。笹尾山、北天満山、南天満山という盆地を見下ろす山裾である。続いて、近在に野営していた摂津大坂城の小禄部隊が続く。さらに、美濃山中に駐留していた大谷吉継、平塚為広、戸田重政、木下頼継がその横、藤川という小河川の最上流に移動していった

 狙い撃ちされそうになった松平忠吉と井伊直政はかろうじて後方に下がっていく。もちろん、何一つ、手柄は立ててはいない。
 その横をいきりたちながら進撃していくのは福島正則の部隊である。目指すのは宇喜多秀家の前衛部隊だった。ほとんど同時に、田中吉政、加藤嘉明が小西行長の部隊をめがけて、長岡忠興が石田三成の部隊をめがけて、突進していく。
 その後の一刻(二時間)ほど、戦闘は一進一退を続けている。平地から突進してくる徳川家康派に対し、山麓に陣取った毛利輝元派は鉄砲を整射して撃退、そして追撃する。しかし、そこそこ追撃すると陣屋に戻り、そこを再び徳川家康派が攻撃してくる。この繰り返しである。

 石田三成の部隊は若干苦戦気味だったものの、宇喜多秀家、小西行長の二部隊は余裕を持って戦っていた。特に一万八千もの大部隊である備前岡山城主の戦力は余裕があり、福島正則、藤堂高虎等の攻勢を叩き返し続けている。
 しかし、最前線で指揮している明石全登は追撃を指示できない。山裾から見る限り、目先の福島正則等の後方には無傷の部隊が多数控えている。さらにその先、盆地の入口には徳川家康の本隊がいることも遠望できた。
 まずは、太夫(福島正則)等を疲労困憊させることだ。焦れた内府(徳川家康)が出てくれば、治部少輔(石田三成)が狼煙を上げる。金吾中納言(小早川秀秋)、安芸宰相(毛利秀元)も動くはず。その時こそが追撃の時だ。
 そう思っている明石全登である。

 金吾中納言の兵がこちらに向かってきます。
 そんな報告を聞いても、大谷吉継は何が起こっているのか最初は理解できなかった。しかし、ほどなく筑前名島城主の前衛からの銃撃が始まる。
「金吾め。」
 否応なく事態を理解した越前敦賀城主はそう喚き、部隊を反転させて攻撃するように命じた。木下頼継、戸田重政、平塚為弘もそれに続く。
 予期しない攻撃を仕掛けた小早川秀秋の部隊だったが、これまた予期しない猛反撃にあい、最前線の部隊は混乱した。突然の方針変換ともあいまって、筑前名島城主の第一陣は後退を余儀なくされてしまう。
 その様子は宇喜多秀家から確認できた。
 金吾め、気が狂ったか。待っていろ、血祭りに上げてやるわ。
 義弟の造反を理解はできない備前岡山城主だったが、目先の事態には対応せざるをえない。中枢部隊と後衛部隊の反転攻勢を指示しようとした。宇喜多秀家の兵は一万五千。前衛部隊約六千は福島正則等と戦っていたものの、一万近い部隊は温存されている。その部隊が反転、大谷吉継の部隊と共同して迎撃に回れば、小早川秀秋の部隊約一万二千と互角以上になるはずだった。
 しかし、大部隊の急な転換には時間もかかる。前年、家臣同士の内紛があり、備前の国人領主を中心とした実戦指揮官が大量に離脱していた宇喜多秀家には、部隊を転換させる為の補佐役もいなかった。唯一といってもいい補佐役、明石全登は前衛部隊を指揮しており、中核部隊と後続部隊までは手が回らない。
行部少輔(大谷吉継)がいて助かった。時間が稼げる。
 思うようにならない部隊転換に焦りつつも、備前岡山城主は素直に越前敦賀城主に感謝していた。

「もうよろしいでしょう。」
 同じ頃、戦況の悪化で後方にまで押し戻されてきた明石全登も、同じ言葉で宇喜多秀家をなだめていた。
 もっと早く撤収したかった、というのが本音である。致命的な損害を受ける前に後退を指示し、近江佐和山辺りで部隊を再集結させたかったのだが、前衛部隊の指揮を取っていた明石全登は後方にいる宇喜多秀家にそう助言する機会を作れなかったのである。
「馬鹿を言うな。これからだ。せめて、金吾の首くらいは。」
 備前岡山城主はそう駄々を捏ねた。目先の敗北もさることながら、一連の戦いで自分が何の戦果も上げていないことを心底悔しく思っているように見える。
「馬鹿をいいなさるな。」
 今度は厳しく明石全登は言い、生き残っていた側近を呼び寄せると脱出する行き先を指示している。できれば大坂へ、それが駄目なら岡山へ向かえ、ということだったが、当面逃げる方面は伊吹山方面しか残っていない。
 しかし、それだけ言うと明石全登は再び残兵をかき集めて前衛部隊に戻っていった。生還の可能性が小さいことを意識しての出撃だったのかまでは定かではない。

 備前中納言等の部隊、壊滅しつつあり。


 慶長五(一六○○)年九月十六日
 もう一人、戦場を後にした宇喜多秀家はといえば、同じように伊吹山の山中を奥美濃へと越えようとしていた。従う側近も少なくなっていたものの、こちらは美濃から伊勢に抜けた上で摂津大坂城へ向かおうとしている。
 大坂には毛利輝元率いる無傷の兵がいる、敗残兵をかき集めて合流すればなんとかなる、あるいは岡山に戻ればもう一肌。
 そんな一縷の望みを備前岡山城主は抱いている。しかし、戦闘で負傷した体は中々いうことをきかない。


 慶長五(一六○○)年十月以後
 徳川家康に引き渡された宇喜多秀家は義兄にあたる前田利長の要請で助命され、駿河府中で幽閉生活を送った。その後、一族共々伊豆八丈島まで流刑となり、八十歳まで生きていたという。ちなみに、明石全登は足掛け十五年間消息が知れなかったが、摂津大坂城を徳川家康が包囲した時にその名を名乗る人物が姿を現した。その「明石全登」なる人物は、足掛け二年間に渡って徳川家康と戦った後、再び逃亡、またしても消息不明となっている。

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