歴史シリーズ その55  なぜ、松平元康は徳川家康を名乗ったのか・・・についての一考察。

 歴史シリーズ その55  なぜ、松平元康は徳川家康を名乗ったのか・・・についての一考察。


 なぜ、松平元康は徳川家康を名乗ったのか・・・これは、私には、長い間の疑問だった。もちろん、今も疑問ではある。
 改名した理由は明らかだろう。三河各地に割拠している他の松平とは違う存在であるということを名実ともに認めさせるためだったはずだ・・・なにしろ、二郎三郎家・・・勢力を拡大し始めた初代の次男の家の三男の家・・・が、自分の出身である岡崎家なのだから・・・まだ長子相続が当たり前ではない時代だが、同レベルの松平から一つ上の存在であることを誇示するための改名だったのは間違いない。
 しかし、なぜ、徳川だったのか・・・ということだ。家康はともかく、徳川はなぜだってことだ。家康は祖父の名からきたものだろうとは思うが、なぜ、徳川なのかってことだ。
 いわゆる説では、先祖が新田系の得川だった・・・というのは後づけだろう。
 まだ、なぜ、徳川と名乗ったのか・・・を明記している説は読んだことがない・・・。家康・・・いや、元康と名乗った理由はママつづられているが。

 最近、ふと気がついたことがあった・・・「別冊宝島 家康の謎 武力・政治力・知力から家康の真の実力に迫る!」を眺めていた時のことだ。そうだ・・・松平元康は今川義元の元で養育され、長く駿府に住み、そこで育ったのだ・・・ということだ。もちろん、今までも知ってはいたのだが・・・。
 家康の名が、(祖父である)清康から一字を・・・というのは、かなりの信頼性がある。「家」の意味が何かはわからないが、「康」は・・だろう。実際、そういう文献も残っているのだから・・・もっとも、元康と名乗った時のことではあるけれど。
 そう思うと、徳川は今川から一字を・・・と考えることもできるのではないか・・・ということだ。
 なぜ「徳」だったのかは、まだ、わからない・・・が、いわゆる吉字ではあるのではないか。仏教的な問題もあるのかもしれないが、とにかく、そんな「徳」と今川の「川」をとった・・・のではないか。

 天下人となった徳川家康は本拠地として駿府を選んだ・・・つまり、巷で言われるほど駿府での生活が苦痛だったわけではない・・・というのが私の考えだ。苦痛どころか、快楽の壺の中にいたのではないかとすら思える。それに引き替え、浜松に移って以降は、見向きもしなくなった岡崎の方が、むしろ、苦痛の地だったのではないか・・・とすら感じている。

 今川義元亡き後、跡を継いでいた今川氏真は、徳川と武田の圧力で地位を失った。しかし、その一族は徳川家康によって保護されている。そんなこともあって、今川一族に対して、いわゆる憎悪を抱いていたとも思えない・・・駿府居住時代に迷い込んだ自分を叱責した孕石なにがしを切腹させるような性格なのに・・・だ。
 むしろ、自分にちゃんとした教育を与え、婚姻によって親族にしてくれたということに対して感謝すらしていたのではないか・・・とも思わなくもない。

 徳川家康を名乗った頃の松平元康は、ようやく三河を制圧した段階だった。それまで支配権を握っていた今川一族に親近感を感じる国人領主も少なくなかっただろう。そんな連中の懐柔も、今川の一字を新しい姓にした理由の一つにあったのかもしれない。

 その後の今川家のありよう・・・徳川と武田の圧力で地位を失った・・・ことが、徳川の川が今川の川であることを不明瞭にさせていった・・・・そんな解釈もありえる・・・と思う。

 康の答えはかなり前から知られていた。徳と家の謎はとけていない。しかし、川の理由は少しだけ可能性を見つけられた・・・のかもしれない。

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