ブナオ峠は越えられない・・・「オロロのいる村」跡探訪記。

 ブナオ峠は越えられない・・・「オロロのいる村」跡探訪記。

 富山シティエフエムで朗読された「オロロのいる村」(遠藤和子著)の舞台となっているのは、小矢部川最上流部の「野坂村」。「栃木ダム」建設直前の産休先生と6人の児童、村人たちの交流を描いた物語。結構、感動した・・・同局のアーカイブで公開されているので、是非お聞きください・・・こともあり、その想定となったと思われる刀利ダムに向かってみた。
 平成29年の台風18号の影響で、煙硝街道は片側通行のところがあった。

画像


 この家、私は「ジョジョの家」と呼んでいる。

画像


 湯涌温泉への分岐点。

画像


 湯涌温泉の総湯はファンなので、ここまでは何度も来たことがあるが、この先は初めて。県道10号線(湯涌福光線)を上る・・・道を間違えて医王山方面に入ってしまい、Uターンしたが・・・脱輪してしまった・・・とほほ。なんともないといいんだが・・・。
 採石場の手前の(寮と思われる)建物の先から、道は急激に狭くなる・・・浅野川の上流部。冬季は閉鎖だが、なんとか登っていった。廃村となった地区だが、家は残っているところもあったはあった。

画像


 いよいよ、富山県・・・つまり峠越え。

画像


 眺望できるところがあったが、先客が占領していたので、そのまま下り・・・刀利ダム。

画像


画像


画像


 ダムは昭和35年の完成だそうだ・・・1960年になる。ネット調査では、この周辺の集落は、1970年までに閉村しているということだった。
 「オロロのいる村」では「栃ノ木ダム」として想定されているところだろう。物語はダム完成の前年だから、1959年・・・昭和34年のことになるのだろうか。10月、いよいよ、分校を去る「つぐみ先生」は、ここまでバスで来て、金沢で通院している教え子・熊吉のところに向かっている。当時は、金沢からバスが通じていたのだろうか・・・。五箇山を含むこの一帯は金沢藩の領地だったし、貴重な煙硝を運ぶルートだったのだから、ありえたのかもしれない。
 管理事務所。廃村となった後、「おシゲばあさん」は、ここで働くことになったという・・・。

画像


 刀利ダムの湖面・・・「オロロのいる村」の頃は、当然、まだなかった。

画像


 ダムの横には道路がある。本来はブナオ峠を経て、五箇山に通じているのだが、かなり前から、ブナオ峠は越えられない。しかし、行ってみるだけ行ってみることにした。
 最初の通行止めの標識・・・行っていいのかな・・・だが、3kmほど先が通行止とのこと。車を乗り入れてみた。

画像


 林業のトラック、軽四とすれ違っているが、他に車はいない。延々と進み・・・ついにここまで来た。

画像


 行けなくはないようだが、ここから先は明白に「通行止」となっている。小矢部川も渓流になってきているので、一応、ここまでにして戻ることとした。
 写真を撮るために車を降りようとした時、窓の外にハエのようなアブのような昆虫がいた・・・と思う。一瞬、オロロかと思い躊躇したが・・・幸い、大丈夫だった。赤トンボが、たくさん飛んでいた・・・。
 ただ、小矢部川の河原はすぐそこ・・・季節が季節なら、オロロが飛んでいても不思議ではないだろうな・・・とも思った。。
 支流にかかる橋。

画像


 たもとには祠があった。

画像


 建物が一つ。行方不明の男性の看板もあった。
 しかし、それよりも・・・分校の碑があった。大美山小学校・福光中学校・中河内分校とある。

画像


 この分校が「オロロのいる村」のモデルなのかはわからない。脚色されているだろうが、集落は野坂村で、福光小学校の野坂分校。中学校のことは出てこない。ただ、児童は0年生から5年生までの6人だから、ちょうど、中学生がいなかったのかもしれない。そんなことも思ったが・・・なんとなく、野坂分校のイメージがわいたのも事実だった。
 周囲は山が迫っている・・・家があった後はまったくわからない。赴任したてで学校を任された「おんな先生」が、子どもと作った「七草分教場」は、こんな山の上にあったのだろう・・・。そして、「つぐみ先生」が生まれたわけだ。

 車で山道を戻る。舗装されているが・・・当時は砂利道だったのだろう。

画像


画像


 途中にある長いトンネル・・・「オロロのいる村」では、「しこたのトンネル」と呼ばれているものなのだろうか・・・もちろん、定かではないが、一方通行のトンネルは、壁天井はコンクリートではあっても、当時の様子を彷彿とさせてくれているような感じがする。

画像


 手前には広場がある。

画像



 「オロロのいる村」では、トンネルを出てしばらくして、広場があって、そこがバス停だった。野坂村はそこから山を越えて・・・なので、中河内は少し設定には無理があるのかもしれないが、ダム湖はトンネルの手前までのようで・・・なんとなく、往時のイメージがわかなくもなかった。
 トンネルのあたりからダム湖が始まる・・・つまり、このトンネルがダム建設の前からあった可能性はあるだろう。

画像


画像


 トンネルの中。

画像


 上流側のトンネルは大きくカーブしている・・・夏休み明けの「つぐみ先生」を待ち構えていた子供たちは、トンネルの出口(上流側)で目を見張っていたというが、それは、ちょっと無理っぽかった・・・下流側の入口はしばらく直線だから、可能だろうが・・・。
 その先はダム湖。湖底には刀利の集落などが沈んでいるんだろう・・・「オロロの村」では「栃ノ木村」とされているが、そこそこ繁栄していた集落だったようだ。

画像


画像


 ダム完成前の村道は当然、そこあったのだろうけれど、ダムの建設前には、埋没しないように新しい道路も作られるだろうから・・・完成の直前にはできていただろう。新しい山道を、産休先生として赴任する「大木山先生」の乗ったバスが通った可能性はある・・・実際、ダムの建設現場を見下ろすような道路をバスが通過しているようだ。

 道路の一角には親水公園があった・・・。
 離村の碑。明示されているのは、上刀利、刀利、藤谷だった。つまり、3つの村が湖底に沈んだのだろう。

画像


 功労者と思われる方の銅像。

画像


 親水公園。水がないところには、かつての建物の基礎のようなものが見えたが・・・定かではない。

画像


画像


画像


画像


 再び、刀利ダムに戻り・・・福光に向かった。「大木山先生」、「つぐみ先生」が数度、往復したルートだろう。道路は山の半ばを走っていく・・・ダム建設のために作られた道だろうが、小矢部川をはさんだ対岸には、集落が見えた。

画像


 野坂村が、こんな立派な建物のある集落だったとは思わないが・・・少し原風景をイメージできたように思う。

 「野坂村」はダム完成の前に集団離村したという・・・昭和35年になるんだろうか。その前年、新採用だったらしい「大木山先生」は22歳くらいか・・・いや、短大出だったら20歳か。ご存命なら、80歳前後になるのか・・・。

 思ったよりも近かったな・・・が正直なところ。帰りは福光から角間に出てきたが、少し迷ったところも含めて、90kmくらいだった。「ブナオ峠は越えられなかった」けれど、「オロロのいる村」の舞台を少し味わえたように思う。
 あと・・・管理事務所が、なかなか素敵だった。参考になった。


 戻ってから調べたが、今回到達できた中河内村・・・1970年閉村・・・の奥・・・つまり、現在は通行止となっているところ・・・には、下小屋という集落があり、1966年に閉鎖しているらしい。そこがモデルなのか・・・とも思った。ダム完成の翌年ではないが、閉村時点の分校の児童数は5・・・これでも「オロロのいる村」の記述と一致している。


 正直に書くが・・・移動したのは2017.09.26-。ワークレスな上に、呼出煙による「ひどい発作」で、研究もままならず、本当に「新鮮空気」を求めての移動だった・・・なんて悪いヤツなんだろうね・・・私は。
 ただ、おかげで、かなり楽にはなったよ・・・発作は。まだ、後遺症はあるけどね・・・。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

驚いた

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック