お城 その7 城下町と海運の分離

 お城を造れなかった徳川家康とその家臣団ですが、まったく創造性がなかったわけでもないと、最近、考えるようになりました。それは「城下町と海運の分離」です。
 織田信長が始め、豊臣秀吉によって一定の完成を見た近世城下町ですが、それは、それまであった街づくりの複合的なものでもありました。つまり、一つの城下町に政治の中心である(狭義の)お城、宗教的な拠点ともある神社仏閣とその門前町、経済の繁栄をもたらす街道や港や商家を整理しつつ混在させていたものでした。大坂城が代表的なものと言ってもいいでしょう。豊臣秀吉によって選定された江戸城も、大枠では、この範疇に含まれています。
 それに対して、天下普請以降の城郭の一部には、経済・・・特に海運の拠点となる港を分離させているものが、いくつか見受けられます。その典型的なものが、駿府と清水、高田と直江津、鶴岡と酒田などでしょう。駿府が天下人・徳川家康の拠点として整備されたこと、既に完成していた越後福島城を破棄させて造成させたのが高田であることなどを考えると、明らかに、政治(と宗教)の拠点である城下町と、海運経済の拠点である港を分離させる意図があったと推定できます。

 ただし・・・どこまで明白な分離意図があったのかは定かではありません。

 こうした海運と城郭の分離の先見的な事例としては、堀直嵜による長岡と新潟の開発があります。宇応曲折を経ての建設であり、そして、結局は牧野家に奪われてしまうことになる、長岡と新潟ですが、信濃川の氾濫原が始まる地にある長岡と河口の港町である新潟を手中にしたその領地経営は、長く長岡藩の財政に寄与していました・・・幕末に天領になるまでは・・・です。
 ただし、これは越後平野の開発と信濃川と日本海の水運を見込んでの開発ですから、政治宗教と経済の分離とは意図とは違う観点でしょう。
 また、織田信長配下の場合には、城郭と海運の分離が行われている事例もあります・・・北ノ庄と三国、金沢と大野などですが・・・これは、まだ発展段階から来た結果的な分離だったと見なす方が正解ではないかと思います。

 天下人となった徳川家康は伏見城、京都の二条城で政務を行なっていました。そして、新たな隠居先として駿府を整備させています・・・もっとも天下人は自分だったわけですが。もしかすると、若い頃に楽しかった思い出のある駿府に住みたい・・・が先にあり、それ故に、清水が外港として整備され、それを習ったのが、高田と直江津、さらには、鶴岡と酒田などなどだった・・・と考えることもできます。
 さらに言えば、徳川家康とその後継者が、特に海における軍事能力をさほど重視していなかった傾向もあるのでしょうか・・・いや、正確には水軍というようなものを理解できていなかったか、それゆえに恐れていた・・・のかもしれません。
 そんな徳川家康は、経済の繁栄によって政治の優越性を失わせる可能性を無意識に感じ取っていたのかもしれません。


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  • お城 その6 天下普請(再)

    Excerpt:  お城を造れなかった徳川家康とその家臣団は、天下をとった後で、豊臣秀吉の家臣達を使い、巨大な城をあちこちに造らせました。いわゆる天下普請です。(2008.06.22-)  豊臣秀吉もそうさせたはずで.. Weblog: 不可不察 racked: 2017-09-12 17:26