知り合いから祖父母の家の図面を書いてほしいと頼まれました。

 知り合いから祖父母の家の図面を書いてほしいと頼まれました。
 依頼者は、だいたい、私と同じくらいの年齢で、同じような経歴の持ち主です。過去に、これまで住んでいた家の変遷を知りたいから、間取り図を書いてほしいと頼まれ、書いてみたことがあります。その後も、父親の世話で居所としている単身赴任先の家も書いてあげています・・・そろそろ潮時らしいですが。
 その人に、盆暮れに行ったことのある自分の(父系の)祖父母の家も書いてみてほしいとの依頼をもらいました。住んでいたことはなく、盆暮れの記憶だけ、それも、三十年以上前。その家は、今はもうないから確認もできないし、もちろん、記憶も定かではないとのことでしたが・・・まあ、それはそれということで、ヒアリングして間取りを作成してみました。
 ということで、いささか不明瞭な部分も多い間取り図ですが・・・

祖父母宅.jpg

 木造の2階建てです。依頼者の祖父が死んでから上屋は壊したとのことでしたが、土地はまだ依頼者の父親が所有しているとのこと。でも、処分もできそうもないみたい。地目が宅地じゃない・・・もう上屋もないから錯誤による登記変更もできませんね・・・上に、接道もはっきりしないので、農地転用もできないんだそうです。固定資産税と草取り費用がかかるだけ・・・らしい。
 始末が悪い父親だと依頼人は嘆いていましたが・・・。

 延べで33坪ですが、八畳二間の2階建てにトイレや書院などを下屋で、さらに平屋で台所や和室4.5畳などをつけたしているような感じの家です。もしかすると、増築したのかもしれませんが、依頼者の記憶にはないそうです。後述するように2階の天井が低かったそうですから、もしかすると2階も増築したのかも・・・。
 確実に付け足したのは、風呂でしょう。まあ、家に風呂がなかった時代の建物ですから・・・ああっと、依頼者もそういう家で過ごした時期があったそうですが・・・当然かもしれませんね。
 ちなみに、祖父の晩年には、縁側の一部を和室にして、書斎にしていた・・・とのことでしたので、その部分だけ、追加で書いてあります。
 改築前の畳数は34.5枚ですね・・・。
 建てたのは、祖父が除隊して故郷に帰ったころかも・・・戦争が終わるか終わらないかくらいではないか・・・だそうです。本家から土地をわけてもらったそうでした。

 依頼者の記憶では・・・
 2階は天井が低く、ぶつかりそうだった・・・でも、あまりあがったことはないので記憶に薄い。便所は舞良戸で汲み取り式、虫が湧いていた、のちに水洗になったっけなぁ・・・。そこの出窓にあった手洗いには水道はなく、水盤に水がはってあって、排水はそのまま出窓の下に・・・。あとでステンレスの浴槽になったけど、風呂は桶風呂で焚口でマキを燃やしていた、脱衣所はなく、廊下にカーテンがあった。和室に掘りこたつがあって楽しかったけど、ある時期から電気こたつになってしまった。夏に寝るときに蚊帳も使ったな。縁側には籐の安楽椅子が置いてあった。四畳半に柱時計があって大きな音を出していたが、それが鳩時計に変わった。床のある和室には「最後の御前会議」の額があった。縁側の先に庇があったところがあって、そこで菊を栽培していたこともあった、スズメバチの巣もあった・・・などなど、などなど。
 そうそう、早くから電話があったけどハンドル回す交換手式で、電線は碍子だったとの記憶もあるそうですよ!

 ここで生活はしたことはないけれど、18歳くらいまでの大晦日は、だいたい、ここで過ごしていて、紅白歌合戦を最後まで見ていたとのこと・・・刑事コロンボが全盛の頃、深夜にピーターフォークが出演していたレース映画・・・グレートレースだったかな?・・・も見たんだとか・・・でした。

 依頼者の祖父は職業軍人だったとのこと。
 農家の次男坊でしたが、体が大きく、徴兵検査で検査官に注目され、紹介状を出すから、貴様、陸軍に入らないか・・・ということだったと聞いているそうです。戦前の農家の次男坊は、いわゆる「おじ」ですから、養子口でもない限り、丁稚か水呑百姓が関の山・・・まあ、今も変わんないかもですが。そして、軍人は当時のエリートです。だから、入隊を決意したんでしょうか。
 徴兵検査終了後に、紹介状をもらって、試験を受け、陸軍の体育学校に入った。薩長閥じゃないからイジメもうけたけど、成績は優秀。卒業の時は、斎戒沐浴して待て、と指導上官に言われた。そして、卒業式で首席として答辞を読み、恩賜の銀時計をもらった・・・が生涯の自慢の一つだったそうでした。機械体操で雑誌の表紙を飾ったこともあるとか・・・ないとか。
 本籍は最初に徴兵検査を受けた師団だったそうですが、職業軍人なので、各地を転々としていたそうです。ただ、配偶者は郷里に近いところの女性だったとか。長期間住んだことはないようですが、陸軍経理学校に所属して会津若松で敗戦を迎えた依頼者の父も、ここを郷里として認識しているようでした・・・生まれたのはこの近くの母親の実家で、あちこちで育ちましたが、一番長いのは兵庫県だそうですけど・・・それでも夏休みとかは実家に来て長く逗留していたそうです。
 武蔵中野や越後高田などにもいたそうですが、大東亜戦争が始まったころは、予備役で兵庫県の旧制中学の教練教官をしていたとのこと。もう50歳くらいでしょうから、当時としては高齢です・・・80歳が当たり前なんて時代がおかしいんですよ・・・。
 しかし、その後、招集をうけ、東南アジアや中国・・・今はなぜか差別用語となり、使ってはいけないそうですけど、CHINA同様に最初の中華帝国「秦」に由来を持つ「志那」と呼んでいたそうですが・・・を転戦していたようです。ただ、傷病もあり、敗戦の直前に除隊・・・最後は中尉だったそうです。その後、地元のメリヤス工場などに勤めていましたが、結核などで入院した時期もあったのかな。村議会議員も一期したりして、90歳くらいで配偶者に先立たれても100歳まで一人暮らし・・・欽ちゃんの番組にも出たのかな。そして、やっと施設に入って、数え105歳まで存命だったとか。生魚はダメで、肉ばかり食べていたそうですが、90代で骨折しても、無事に回復したこともあったそうです。

 ちなみに、年金は・・・旧制中学の教官だったので、文官扱いだったそうです。意外にも武官よりも高かったとのこと。海軍出の阿房作家が文官を厚遇するのが海軍の伝統だとわめいているエッセイを読んだことがありますが、文官厚遇は海軍だけではなかったのですね・・・。

 依頼者が、最後に(存命の)祖父にあったのは、終末期病院でした・・・もう意識もなく、ベッドの上で横になっていたそうですが、依頼者が声をかけると目を開けた・・・けれど、すぐにつぶってしまった・・・それが最後の記憶だそうでした。

 依頼者が、最後にこの家に入ったのは、その十年ほど前・・・祖母が亡くなった時の葬式だったそうです。直系の近親者なのに、お邪魔虫みたいに、隅っこにおいやられて・・・という記憶があるそうですが、一族意識の強い家だったみたいでした。まあ、田舎なんてそんなもんかもしれません。
 葬式では、喪主の祖父すら隅っこで、本家一門衆が仕切っていたって感じでしたから、直系でも分家の次男なんか、およびじゃなかったんでしょうね。



 余談ですが・・・
 本格的には長く具無沙汰だったJWWでしたが、やはり、使いやすいですね。

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